昭和49年06月09日 特別奉修委員



 (途中から)
  それは、神様と人間とが一体になると言う事です。神様と私共が一体になるというそれが最高のいわばおかげです。それにはやはり、その神様の心に溶け込んで行かなきゃならない。自然の働きに溶け込んで行くと言う事。その自然の働きに溶け込んで行くと言う所に、いわゆる自然を生かしていくと言う事になる。
 それとここには人間心と言う物が本当に使われないのです。例えば今日先ほど佐田さんの、これはもう今日に限った事ではないですけれども、毎日毎日がもう本当に神様の御働きというか、働きの中に、何かねリズムに乗ってる、本当に良い事悪い事ですよ。これはもう乗っておるのだから、もうよい事悪い事一切がおかげと思わにゃおられません。
 まあ、お婆ちゃんのお姉さんにあたる方が、もう今日何日見えとられます。今日帰られると言う事。まあ随分贅沢な方であちらこちらに、見物に行ったり、美味しいもの食べて行ったり、まあそれが仕事の様にして行かれるのだそうですが。
 先日からも、あの、斉魚(えつ)料理を食べに行かれたんですね。もうそのなんとも言えん雰囲気の中に「楽しいわ、楽しいわ」と言うて、そのお婆ちゃんも言われ続けておられたそうです。なら、お神酒を頂いて、それから隣の座席の方でも、その人がにぎわいよった。それがひとつも邪魔になる所から、もうこうやって三味線が鳴り出したら、それがまるっきりこちらの座席に繋がっておるごと楽しかったち。
 それで向こうの三味線に合わせてから私が踊りましたち。とてもそげな事が有り得るだろうかと思うごとあるけれどもね。もうそれこそ、本当に何とも言えんそういう働きと言う物がね。向こうの芸者さん雇ってから賑わいよるごとある感じですね。
 その、今日ではない、久保山さんここの西郷の久保山さんじゃない、ここの指出の久保山さんですね、これはもう毎朝真剣に、毎日さらの事の様にして願われえる事の中に「今日もどうぞ成り行きを大切に大事にさして下さい」という事です。もう大体言うたらね、これいっちょで良いとですよ。金光様のご信心は。
 もうどんな場合であっても、それで、人間関係といい様々な事がですね、もうそん時には結論は出ませんよ。けれども、それを大事にして行きよりとです、その人間関係で、もう自分方をまるっきり目の上のこぶのごとしなさる家が、まあありますよね、お互いの親戚だけではない。隣近所の中でも何か知らん、あの人は家に仇のごと思うて御座る何人かの人達がおる訳ですけれども。まあそれは様々な、いうならば妨害とか何かがある訳なんですね。
 まあその、けれども、もうそれこそ其処ん所を大切にして、そこで言い訳したり、言うたりすりゃ向こうも改まりなさるかもしれん。けれども言わずに、ここが成り行きを大切にする所と言う様なことになって来るとね、それが何時の間にかそういう人がです、向こうから挨拶をされる様になるという、なったという今日御礼のお取次ぎがあっとりましたがね。もう何とも言えん味わいです。
 もう本当に先ほど、中村さんが来ちゃってから、まあ昨日私は失敗しましたという訳です。とにかく夜がどうか都合のやっぱあったんでしょう、もう子供はばあちゃんにかまっておったのに自分はちゃんと寝てしもうとる。どげんあるとの、どおのち聞いったちゃ、おん物も何も言わんと、こういう訳です。ね。
 本当に中村さん、神様はそげんして今日の御理解じゃなかばってん育てて下さりよるとばってんね。もう結論を急ぐ訳です。夜も機嫌悪うしておるならば、機嫌が良くなるごととなる気持ちはありますよ、だからむこうて、そらあんたこげん思うと言やかえってすーっとするかも知れん、どっこい問屋はそげなふうに下ろさん。返事せん。だから今度はこちらまで汚す訳です。
 けれどもなら、中村さんに私が言った様に、神様がそげんしてその育てて下さりよって練ってる訳です。だから私を育てて下さってあるんだという、その生き方になったらですね、そら全然問題ではなくなってね、その後の何ともかんとも言えんおかげに継がるのです必ず。そういう生き方がね、自然の中に溶け込むという生き方なんです。
 もうそれこそ毎日毎日が、例えば、中村さん辺りのお届け聞きよると、もうその日の御理解をもう本当に、このくらい一生懸命行じよりなさる人がおるだろうかちゅうぐらいに、あくる日は御礼のお届けが長々となる訳ですよ。
 今日のは、昨日の御理解を頂いた時、今日はこれで行こうと思うたけれど、どっこいその、別に悪気じゃなかった、そう言う風にしておるのを、まあよくなろうと思うて言うたっちゃけえれども、それを黙って受けれる豊かさというかね。やはりこの自然に溶け込むと言う事は、もういよいよ豊かなものがなからないけんです。
 人間心使うて、成程信心で言うともいい、申しますけれどもね、それよりも何よりも言わずにね、もうそれこそ黙ってその中に受けていく、溶け込んで行くという生き方の中から、そういう、例えば困った事、忌まわしい事であってもです、それが何とも言えん働きになって表れて出て来る様なね、そういうおかげを頂かしてもらうと言う事が合楽の信心の、一つの一番素晴らしい御流儀だと思います。
 まう今答えを出さなきゃならんといったような結論を急いではほんとうの信心の妙味になりません。信心の味わいになりません。ただおかげ頂いたと言う事だけの事です。ですから此処ん所をです、それこそ隣の三味線で踊りの踊れるくらいなね、一つおかげを頂きたいですね。
   どうぞ。